朽ちた洋館には意外なほど光が入り込んでいた。
硝子の砕けた窓や、崩れ落ちた天井から木漏れ日のように光が入る。
知り合いに廃墟や見捨てられた土地などを見るのが趣味だという男が居るが、彼ならば飛び上がって喜ぶかもしれない。そんな趣味を持っていなかった良昭ですら、差し込む光の美しさに目を奪われたのだから。
「……おおい、誰か居るのか!」
埃まみれの廊下を進みながら声をかける。
先に階段を見つけたが、このまま崩れ落ちるのではないかというほど傷んでいたので、とりあえず二階は後回しにすることにした。出来るなら、あんな階段は上りたくない。
廊下の隅に白いものが見えた。
光の差し込まない影の中にぼんやりと白いものが浮かんでいる。
何だと思うより前に、それがゆらりと浮かび上がったように見えた。
思わず、悲鳴が口から零れそうになる。
それを押しとどめたのは鈴のような声だった
「誰……?」
歳は十四ほどだろうか。女性にしては珍しく肩の辺りで髪が切り揃えられている。その紙を飾る赤い紐が、ほどけかけて見窄らしく肩に垂れていた。
どうしてこんな幼い娘が朽ちた屋敷にいるのだろうか。疑問に思うのと同時に、その青白い顔色に不安をかき立てられる。
「君は……?」
少女が良昭を見上げる。
「蓮子」
彼女はそれだけを言うと口を噤んでしまった。
良昭の反応を待っているようにも見えたし、ただぼんやりしているだけにも見えた。
「蓮子、ちゃん?」
口にして、奇妙な既視感を覚える。
今まで二十年ほど生きてきて、蓮子という名の知り合いはいた記憶がない。読んだ覚えも当然ない。けれど確かにその名を知っていた。
「あ、ええと……俺は良昭っていうんだけど。君、ここで誰か大人の人を見なかったかい?」
蓮子の目が良昭を見つめている。
よく見れば美しい顔立ちをしていた。もっと健康的な場所で快活に笑っていれば、ずっと可愛く見えるだろうに。今すぐ彼女を外に連れ出してやりたい衝動に駆られたが、それよりも前に良昭には捜さなければならない相手が居る。
蓮子は答えなかった。
ただ良昭を見つめ口を噤んでいる。もしかしたら何か咎められるかと良昭を恐れているのかもしれない。人を捜すのに彼女の力を借りる必要はないが、だからといってこんな廃墟に残しておくわけにもいかないだろう。
良昭は少しだけ考え、ゆっくりとかがむ。蓮子と肩を並べても彼女の表情は変わらなかった。
大丈夫だという思いを込めて、良昭は笑う。
笑うのは得意だ。
良昭の顔を見て、はじめて蓮子が表情を変えた。ほんのわずかに目を見開いた程度だったが、良昭にはすぐにわかった。同居人のおかげで妙なことが得意になったものだ。
「ん?」
蓮子が良昭の着物の裾を掴んだ。
首をかしげると、もう片方の手で廊下の先を指差す。
「あっちにいたの?」
こくりと頷く。
その髪に絡んでいた飾り紐がはらりと揺れた。
「これ、結び直さないの?」
肩にかかる紐をつまんで良昭が聞く。
飾り紐を髪につけるのが流行したのは数年前だが、好きな人は今でもつけているのだろう。蓮子のように。
彼女の紐は、朱染めの糸に金糸を編み込んだ可愛らしい物だった。せっかくの紐を、年頃の少女がほどけたままにしておくというのは、いささか妙だ。
首をかしげる良昭には答えず、蓮子は俯いて唇を噛んだ。
まずいことを聞いたかもしれない。慌てて取り繕うとすると、か細い声が聞こえた。
「……出来ない」
よく見ると、その目には涙が溜まっている。
「れ、蓮子ちゃん」
ここで泣かれては困る。慌てた良昭の脳裏に、数年前の母親とのやりとりが浮かんだ。流行の紐を買ってきたのはいいものの、不器用な母一人ではうまく出来ず、さんざん手本を片手にやらされたことがあった。
「あ、あのさ……俺でいいなら結ぶよ? その、うまく出来るかはわからないけど」
蓮子は涙ぐんだままで微動だにしない。
拒まれているわけではないと判断して、恐る恐るその紐に手を伸ばした。絡んだ紐を一度外し、細くなめらかな髪を一房だけすくう。
記憶の底から必死に結び方を引っ張り出して、紐を結っていく。単純に結ぶだけではなく、花などの形になるように結べるのが女性に喜ばれた理由らしい。その代わり結び方はどうしても複雑になり、次第に忘れられていくことになった。
しばらく紐と格闘して、ようやく花らしい形にすることが出来た。
「……どうだ?」
迷いながら結っていったので、形がかなり歪になってしまった。言われなければ、いや言われても花だとは認め難い形をしている。気分を害されたらどうするか、暗澹とした気持ちで良昭は蓮子の顔を伺う。
そこにあったのは笑顔だった。
ほんの少し、けれど確かに彼女は微笑んでいた。
たとえばそれが、明るい日差しの中だったならば、もしくは彼女の肌の青白さが少しでも良くなっていたなら、心温まるものだったのかもしれない。
だが今の蓮子では、それは痛みを生むだけだった。
そうたとえば、死を待つばかりの人が諦観したようにやさしく微笑んだら、こんな気持ちになるだろうか。
死、という自分の連想に、背筋が凍った。
漠然とした予感が胸を蝕んでいく。
ぐっ、と袖を強く引かれて、良昭は我に返る。
蓮子が先刻、指差した方へと促していた。
「あ、ああ、そうだな……行こうか」
連れだって歩こうとしたところで、蓮子の足下に目がいく。
裸足だった。
こんな荒れ果てた廃屋の中を、少女が一人裸足で歩いていたのか?
「――蓮子ちゃん!」
無意識のうちに叫んでいた。
彼女が不思議そうに振り返る。病的なまでに青ざめた肌の、その理由を良昭は知らない。
蓮子。
唐突にその名前が良昭の頭に響いた。
乙木に貸したあの本、あの怪奇小説の少女は、そんな名前ではなかったか。
想い人に裏切られ、自ら命を絶った幼い娘。絶望と寂しさから、残虐なまでに道連れを求める憐れな死霊。
「君は……」
蓮子が首をかしげる。
その動きに合わせて、良昭が結んだ飾り紐が揺れた。
力を込めて振り払いそうになる腕を必死に抑えた。その手で、蓮子の手を裾からそっと外す。
良昭は無言のまま草履を脱ぎ、荒れた廊下に素足をつける。痛いほどの冷たさと、砂の感触が気持ち悪かった。蓮子はずっとこんな冷たさの上を歩いていたのか。
あるいは感じてなどいないのか。
おぞましいものだと拒むことも出来た。その手を振り払い逃げ出すことも、出来たはずだった。
良昭の手が、草履の向きを変える。
「これ、履きなよ」
蓮子がぱっと顔を上げる。驚きと、その下にあるのは何だろうか。困惑、不信、あるいは罪悪感。
ありがとう、と吐息にも似た声で蓮子が言った。
その響きはあまりにも悲しかった。
「……どういたしまして」
あらためて良昭が手を差し出す。
握り返された蓮子の手は、氷のように冷たかった。
そこは、おそらく家族のために作られた部屋だったのだろう。
洋館は目的ごとに部屋を分けるのだ、という聞いただけの知識からそう判断する。光を取り込む大きな窓と、たくさんの写真立てで飾られた暖炉。そこに残された写真は、色褪せて切り取ったはずの瞬間を失っているだろう。
大きな食卓とそれを囲む三対の椅子。どれもまともに立つことすらままならず、灰まみれの床に崩れ落ちている。
かつてどれほど穏やかな光景がここにあったのか。
差し込む光の中で暖かな時を過ごした人たちが、確かにここにいたはずなのに。
「よう」
壁際から、聞き慣れた声がした。
その男はいつか見た老竹色の着物をまとい、部屋の隅で光を避けるように壁にもたれていた。
「……乙木」
何度この名を呼んだだろうか。
幻のような夢の中で。
そして、あの部屋で。
「蓮子がお前に懐くとはね……まあ、うん、たぶんそうなるだろうとは思ってたよ」
「この子を知っているのか?」
ああ、と頷くと、乙木は壁から背を離し、蓮子に向き直った。
「蓮子」
「……いや」
ひやりとした感触が腕を包み込む。蓮子が腕にしがみついていた。
「いやじゃないだろう。そいつを連れていくことになってもいいのか?」
白い手が良昭の着物を強く握りしめる。
「待てよ、乙木。よくわからないがこんなに怖がっているじゃないか」
腕に蓮子の震えが伝わってきて、思わず口を挟んだ。
乙木が深い溜息をつく。
「お前は本当に、妙なもんに懐かれる……いや、懐かせる――か」
言いたいことが理解できず、良昭は眉をひそめる。
乙木は良昭の反応など気にしていないようで、胸元から一冊の本を取り出した。紐で閉じられた古い形の本だ。乙木がいつも持ち歩いている本。
「蓮子、そいつは他の男たちとは違っただろう」
はらはらと頁を繰りながら、乙木が語りかける。
乙木の声に、袖を掴む手がわずかに緩んだ。
沈黙が流れる。
おそらく乙木は蓮子が動くのを待っている。彼女が何かの覚悟を決め、良昭から離れるのを。
乙木がこの震える少女を傷つけるようなことは、ない。それは確信できた。
だが、乙木のしようとしていることはわからない。
蓮子が何者なのかも、なぜ二人がこの洋館にいるのかも。
余計な口を挟むべきではないのだろう。
「……蓮子ちゃん」
それでも、震える少女をそのままにすることはしたくなかった。
この場所に良昭を導いたのは間違いなく乙木だ。ならば、部外者などとは言わせない。
乙木は、何も言わなかった。
「俺には君たちの事情はよくわからないけど」
震える手にそっと自分の手を重ねる。
その冷たさは、きっとどんなに長い時間手を重ねていても溶けることがない。
「今からあいつがやろうとしていることは、君にとってよくないことか?」
蓮子が良昭を見上げる。
赤い飾り紐が揺れて、透明な雫が頬を滑り落ちた。
「そうなら俺は、あいつに恨まれても止める」
はらはらと青白い肌を涙が落ちていく。
何かを伝えようと必死で口を動かすが、うまく言葉に出来ないようだった。その声にならない言葉を、良昭は理解できた気がした。
「うん、違うんだろう?」
蓮子が何度も頷いた。
その頭をくしゃくしゃと撫でる。なめらかな髪の感触が心地よかった。
「いい子だ」
思わず言葉が口からあふれる。
年頃の女の子に、子供扱いはまずかっただろうか。だが予想に反して蓮子は笑っていた。眩しいものを見るように、大人びた表情で微笑んでいた。
するりと、彼女の身体が良昭から離れる。
「蓮子ちゃん……」
「ありがとう、飾り紐も草履も」
蓮子が光の中に躍り出る。
まるで彼女をかき消さんばかりに、光が容赦なく降り注ぐ。
「いいよ」
乙木に向かってそう微笑む。
彼の手には、良昭が贈った万年筆が握られていた。 町を歩いていた時に便利そうだ、と眺めていたから贈ってみたくなった。手渡したときの乙木の顔は今でも覚えている。少しの困惑と純粋な喜び。そして、痛み。
本の上を軽やかに動いていた筆が、唐突に動きを止める。
ふわりと乙木の髪が舞い上がった。乱雑にくくられていた長い髪が、風に煽られてたなびく。
その風は、紙の上から生まれていた。
「……乙木?」
何が起きているのか、良昭には理解できない。
本から生まれる風は次第に強くなり、その流れがうねりながら蓮子へ向かう。
「――――蓮子ちゃん!!」
あの儚げな身体が風に巻き込まれて舞い上がる。
咄嗟に助けようと身体が動いていた。
激流の中に手を伸ばそうとして、その中の蓮子と目が合う。そこに助けを求める意志はなかった。
諦観と安堵。
悲しげな微笑みに、良昭の手が止まる。
「れ――――――」
もう一度名前を呼ぶ間もなく、風のうねりは部屋を駆け巡り本の中へと戻っていった。
一人の少女を連れたまま。
風がおさまり、残されたのは沈黙とさらに荒れ果てた部屋。
そして、乙木。
音を立てて、その手が本を閉じた。
「……何をした」
乙木がようやく良昭を見る。
「怖い顔だな。心配するな、在るべきものを在るべき場所に戻しただけだ」
そう言って乙木は笑おうとする。
だが、その口元は引きつったようにしか動かない。
そのことに自身も気付いているのだろう。眉をひそめて顔を俯けた。
「乙木、お前……」
顔を上げた時、乙木の顔は歪んでいた。
苦痛か悲しみか。
負の感情をあらわにする乙木を、良昭ははじめて見る。
「わかるか、良昭。俺たちは共に生きれなどしないんだよ」
人と、そうでないものを分かつ境界。
それがどこにあるのか、良昭は知らない。
乙木は知っているのだろうか。知っているから望めず、知らない良昭だから愚かにも望んでしまうのだろうか。
「いくのか」
自分の口が吐き出した言葉に、自分が殴られたような気分になった。
地面が揺らいだような錯覚を覚えて、真っ直ぐ立っているのかもおぼつかない。
「悪いな」
乙木が苦笑する。ようやく笑みらしい表情を作る。
そんな笑顔など、見たくはなかった。
「なあ、良昭。俺がなぜ乙木と名乗ったか教えてやろうか」
思いもしなかった言葉に、良昭の眉が歪む。
「お伽噺だよ。人に作られた憐れな物語だ。人の都合で歪められ色を変える」
「それは……」
いつかの言葉を思い出す。
変葉木。
「俺はそういうものたちを見てきた。さっきの蓮子もそうだ。心当たりはあるだろう?」
蓮子、という名の死霊。
想い人に裏切られ、大切にしていた髪を捨てた怨霊。それでも恋情は捨てられず、贈り物だった飾り紐をいつまでもつけていた。
そう、作り出された。
「人は物語の一面しか見ない。その裏側にどんな思いが潜んでいるかわかりもしないで、都合よく飾り立てる」
青白い肌をした可愛らしい顔立ちの少女。恐ろしく陰惨な怨霊。歪められた物語の形。
描かれなかったもう一つの姿が、あの蓮子だというのなら。
乙木は。
「俺はいくよ。蓮子と同じように」
「そんな……!」
言い返そうとする良昭を、乙木が呆れたように笑って見ていた。
その目には、やさしい光が灯っていた。
「蓮子は、お前が真っ直ぐ見てくれたから、あのままの姿で居られたんだ」
乙木の手が本を握りしめる。
あの中に蓮子がいる。
良昭が出会わなかった、あるいは物語の中で出会っていたかもしれない、何かたちがいる。
「だから、覚えていてくれ」
ゆっくりと乙木の手が本を開いた。
はらはらと頁がめくられていく。
「俺が居なくなっても、今ここにいる俺の存在を、忘れないでくれ」
「いやだ……」
いって欲しくはない。
せっかく友人としてわかり合えるようになったのに。
「はじめ直そうと言ったじゃないか、もう一度――まだ、まだ何もしていない」
柘榴と三人で、笑い合う日が来ると思ったのに。
「充分だ、良昭。……充分なんだよ」
生まれを捨てることは出来ないと、そう告げたのは乙木。その意志を、歪めることは出来ない。
どんなに止めても、乙木はいくのだろう。二度と、良昭の手の届かないどこかへ。
「お前、物語を読むだろう」
それが何だというのか。
今までさんざん人から本を借りておいて、今さら何を言い出すのか。
「その裏側には俺が居る」
強い言葉で乙木が言った。
「……だからって、笑って許せるわけないだろう!」
もっと話したいことがあった。
やりたいことも、行きたい場所もあった。会わせたい人だっていた。千世に連れていきたかった。春ちゃんや家族にだって紹介したかった。編集の連中に乙木の乱読のすごさ見せつけたかった。
三人で居る未来を、いつか描けると願っていた。
願っていたかった。
「……なあ、泣いてないで聞いてくれ。お前に頼みたいことがあるんだ」
「俺に頼むくらいなら、ここに残って自分でやればいい」
ぼろぼろと涙が落ちていく。
乙木が首を左右に振った。
「俺には無理なことだ。俺は物語を書かないからな」
乙木の言葉に、一瞬だけ頭が冷える。
その手の内で万年筆が踊った。
「お前が物語を紡ぐ時、そこに世界があるのだと知っていてくれ」
空気が熱をはらみ、乙木の手へと集まっていく。
風が、生まれようとしている。
「――――乙木!!」
静かな微笑みだった。
そこに諦めや悲哀があれば、何が起きたとしても止めようと出来たのに。
穏やかな、美しい笑みだった。
どんなに手を伸ばしても、もう二度と乙木に届くことはないのだと思い知らされる。
乙木が、その手を取ることはないのだ。
永遠に。
「俺に世界を残してくれ」
轟と、風の音が鼓膜を支配する。
全ての音が掻き消され、自分の叫ぶ声すらなくなってしまったかのような錯覚に囚われる。
何度も、何度も。
砂や埃に喉が悲鳴を上げても、それでも叫ぶことをやめられなかった。
風の向こうに乙木の姿が消える。
その瞬間まで、どうかせめて声だけでも届くようにと。
それが、目の前にいる乙木のために出来る最後のことだった。
轟音は唐突に力を失い、秩序を持った音が戻ってくる。
荒れ果てた部屋に、苦しげな良昭の息づかいだけが響く。
何一つ残らなかった。
「……乙木――――」
目の前から消えてしまったことが、夢だったように感じる。
このまま家に帰り、ごく当たり前の日常に戻れば、またいつものように遊びに来るような気がする。
歯を食いしばって涙を飲み込む良昭の耳に、かすかな物音が届いた。
何か軽い物が、地面に落ちるような音だった。
風邪に荒らされた室内の物が崩れたのだろうか。そう思いながら辺りを見回して、それを見つける。
窓から注ぐ光の中に。
一対の草履を。
「――――……蓮子、ちゃん」
震える手で拾い上げたそれは、氷のように冷たかった。
その上に、いくつもの涙が落ちる。
「乙木……!」
堰を切ったように涙があふれた。
乙木は、居なくなるわけではないと言った。そうなのかもしれない。
本を開く時に、筆を持ち机に向かう時に、そこに乙木が居る。そしてまだ知らないたくさんの存在たちがいる。
けれど、それでも、願うのは許されないことだろうか。
愚かで身勝手で醜いことだろうか。
「それでも……それでも俺は――――」
言葉にならない願いは、乙木の元へ届いただろうか。
流した涙が見えていただろうか。
どうか、忘れないで欲しい。
愚かにもお前とともに生きたいと思った人間がいたことを。
ずっと、願い続けているから。
それから、草履を手に持ち裸足で帰ってきた良昭を見て、柘榴は何も言わなかった。
ただ呆れたように離れに招き、少しだけ寂しそうに笑った。
あれ以来、妙な夢は一度も見ない。
その代わりに、たくさんの物語が良昭の中に生まれるようになった。それに合わせて、書き物の仕事も随筆から小説を中心に予定を組むようにした。
はじめて長編小説を書き上げた日、父親に見せた。
良昭の書くものをろくなものじゃないと酷評し続けていた父が、はじめて良かったと呟いた。
その話は出版社の人間にやけに気に入られ、派手に宣伝されてそこそこ売れた。まだ足りないとばかりに、早くも続編を促してくる。
出版された本を見て、兄たちや母親は素直に喜んでくれた。
お前がこんなにやさしいものを書くとは思わなかったよ、と次兄が言ったのが、やけに心に残った。
千世のマスターに教えたら店の片隅に置かれて、たまに常連客にからかわれるようになった。春ちゃんがくれた手紙が、はじめてのファンレターというものになった。
もらった稿料で、まず万年筆を買った。贈り物にしたのと全く同じものを、全く同じ店で用意してもらった。
柘榴は何も言わなかった。
何も言わず、繰り返し本の頁をめくり続けている。
猫が居ない時の柘榴の膝には、必ずこの本が広げられるようになった。はじめは照れくさかったが、柘榴が本当に穏やかな顔で読むので、そんな柘榴を眺めるのが良昭の趣味になった。
そして、今日も万年筆を手に世界を紡ぐ。
ここにはいない友へ、聞こえているかと呼びかけながら。
季節は一巡りして、また春。
穏やかな気候は、猫のために窓を開けておくのにちょうどいい。
猫の声が聞こえて、そのしなやかな肢体が窓枠を越える。よく来たな、と柘榴が微笑んで膝を明け渡す。
畳の上に置かれた本の題名は、御伽草子。
その裏側に生まれた世界はやさしい光に満ちているだろうか。
出来うるならば、こんな風に穏やかな日常が息づいていることを願う。
微笑んで、良昭は机に向き直る。
やがて猫は、柘榴の膝で穏やかな寝息を立てるだろう。
了。