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4、広場に落ちる影

 春から夏に変わろうとする空は澄みきった色をして、二十一歳のレイとナナの頭上に広がっていた。街の中央に位置する広場へ続く道を、二人は並んで歩く。二人の間にはバスケットがあり、その中にはヒューの砂時計が入っていた。
「でも、久しぶりね、こうして二人で歩くの」
「うん」
 あれから、サーカスが街を去ってから、レイは時計工として本格的に仕事を任せられるようになり、戦争が始まってからはずっと店番や街の警護に駆り出されていた。そして、ナナはナナで忙しそうに毎日を過ごしていたように見えた。
「最近、どうしてる?」
 少し前までは訊かなかったようなことを訊く。これまではこんな風に訊かなくても、お互いのことはよく知っていたし、わかっていた。
「そうね、小母様にお菓子の作り方を習ったり、裁縫の仕方を習ったり……それと時々、小さい子の面倒を見させてもらっているの」
「面倒?」
「ええ。ほら、今みんな忙しいでしょう? だからお手伝いさせてもらっているの。これでも評判なのよ?」
 へぇ、とレイが感心する。確かに昔から、ナナは小さい子と遊ぶのが上手だった。
「このクッキーも、その時の約束」
「そっか」
 ナナはナナでやることを見つけていたんだ、とレイはほっとする。いつだったか、レイやヒューのことを羨ましいと言った少女はここにいなかった。
 煉瓦色の街並みの向こうに、時計塔が見える。錆色の塔は、初夏の日射しを受けて静かに沈黙を守っている。塔の足元に、小さな影が見えた。
「みんな、もう来てるみたい」
 ナナが笑って、大きく手を振る。小さな影たちも、それぞれ手を振って応えた。
「ナナ姉!」
 小さな影のうちの一人が、駆け寄ってナナに飛びつく。少年はすぐにナナの持つバスケットに気付いて満面の笑みになる。
「うわあ、美味しそう!」
「ホントだ、いい匂い」
「ナナお姉ちゃん、早く食べさせてよ!」
「まだよ。おやつの時間には早いでしょう?」
 いつの間にか少年に続いて駆け寄ってきていた子共たちに、あっという間に囲まれる。子共たちの中で幸せそうに笑っているナナを、レイは眩しそうに見つめた。
「お兄ちゃんもクッキー食べに来たんだ?」
 すぐ近くから声がした。一番最初にナナに飛びついた子供だった。まだ十歳ぐらいだろうか、大きな眼とずいぶん大人びた表情で、レイを見上げている。
「いや、俺は食べないよ。ナナについて来ただけ」
「ふうん」
 子供はじっとレイを見つめている。レイがどう反応したものか途惑っていると、みんな広場に行くよ、とナナの明るい声がした。それでも子供はレイをじっと見ている。
「僕はショーンだよ、お兄ちゃん」
「あ、ああ……俺は」
 名前を言おうとしたとき、ショーンが知ってる、と遮った。
「時計屋さんのレイでしょ。ナナ姉から聞いてる」
 レイはついぽかんとしてしまった。まだ十歳くらいの小さな子供、されどこれは嫉妬ではないだろうか。レイを睨む表情には確かにそれが含まれている。その対象は間違っているが。
「ショーン! レイ! おいていっちゃうわよ」
 少し離れたところからナナの声がして、二人は振り返る。
「今行くよ!」
 ショーンはそう叫んで、レイのことなど振り向かずに駆け出していった。
「……なんなんだ」
 ため息まじりに呟いてから、先に行っててとナナに叫び、ゆっくりとした足取りで広場へ向かう。わずかに重い右足を引きずりながら歩き出すと、心臓が跳ねた。
(え)
 黒い影が頭上をよぎる。鳥なんかではありえないくらい大きく黒い、これは。
(――――駄目だ)
 足が硬直する。はっとして空を見上げるが、そこには雲一つない青空だけが広がっていた。
「……え?」
 心臓の音がうるさいぐらいに響く。その音の向こうから、穏やかな日常のざわめきが聞こえる。ナナと子供のはしゃぐ声が聞こえる。
 確かにレイは見た、頭上を黒い影がよぎるのを。だが、いくら空を見回しても、そんなものは影も形も見えない。
 それに、
「……何が、駄目なんだ?」
 自分の感情が理解できず、レイの口からは掠れた呟きがこぼれた。


 時計塔の下でナナがクッキーを配っている。ナナの周りに集まった子共たちもナナも、とても楽しそうだ。
(しばらく忘れてたな、子供の笑顔なんて)
 戦争勃発、徴兵、敗戦の噂、そんなものにばかり取り囲まれていて、気が付かないうちにずいぶんと疲弊していたようだ。レイは苦笑する。
 レイはナナや子共たちから少し離れたベンチに座っていた。もともと子供はあまり得意ではない。遅れて広場に入り、何も言わずに座ったレイを見て、ナナは困ったように笑った。
 どうしてナナについていなくてはと思ったのだろう。ナナが広場で子共たちと一緒にいることはわかっていたし、第一ヒューのことで何かあっても、レイには励ますことすらできない。むしろいない方が彼女にとってはよかったんじゃないだろうか。
(でも、一緒にいなきゃいけないと思ったんだ)
 傍にいなければと、確かにそう感じた。そして今も感じている。
 嫌な予感がする。
 あの黒い影。あれは一体何だったのだろうか。幻覚か、気の迷いか。
 レイは深いため息をつく。きっとあれは気のせいだ。戦争が長引いているから疲れと不安が溜まって見た幻覚なんだ、レイはそう思い込もうとする。だが、一度覚えてしまった不安は消えそうにない。
 もう一度息を吐いて、空を見上げる。不安の欠片もないような青い空。それが逆に不安だった。またあの黒い影が現れるんじゃないかと、心臓の鼓動が早くなる。
(……だから、あれは気の迷いだって)
 断ち切るようにレイはナナに視線を戻した。ナナは空を見上げていた。
 ヒューを探しているのだろう。しかしそれらしい影は見当たらない。ナナの表情に疲れが浮かぶ。するとナナが何かに気付いて下を見る。ナナを見上げるショーンがいた。ショーンが何か言う。困ったようにナナは笑い、それからショーンの頭を撫でる。
(おいおい、ずいぶんと嬉しそうじゃないか)
 微笑ましい光景にレイは苦笑をこぼす。
 ふとショーンがレイに気付き、嫌そうな顔を浮かべる。笑われた、と思ったのだろう。ショーンはナナの手を頭に載せたまま、レイに向かって舌を出してみせた。
「……ぷっ」
 思わず吹き出してしまったレイに、ナナがきょとんとする。そしてショーンの顔が更に険しくなる。やっぱり子供だ、などとレイが考えて余計笑いそうになってしまった、その、瞬間。
 甲高い音が広場全体に響いた。
 広場中の人間がぎょっとして顔を上げる。一瞬のうちに、その全員から血の気が引く。
 空襲を知らせる警鐘だ。
 カン、カン、カン、と街中に警告音が響く。まさか、と誰かが叫ぶ声が聞こえた。小さな悲鳴が響いた。広場にざわめきが広がり、逃げまどう人々の足音が反響する。
「―――ナナ!」
 レイが叫ぶ。ナナが我に返るのは早かった。一緒にいた子共たちをなだめ、すぐに避難場所へ続く通りへと走らせる。そして、右足を引きずりながら懸命に移動するレイのもとへ駆け寄る。
「大丈夫?」
「ああ、それよりナナ……」
「先に行け、なんて言わないでね」
 言おうとした言葉を先に取られて、レイが詰まる。ナナは笑っていた。その頬はこわばっていたし、レイを支えようとする手も震えていたが、レイはそれ以上何も言わなかった。
 ナナに支えられながらなんとか広場から出たときには、周囲に人の姿はなかった。ただ一人、ショーンだけが柱の陰に隠れるようにして二人を待っていた以外は。
「ナナ姉、早く! レイも!」
「ショーン……先に行ってなさいって言ったでしょう!」
 ナナの叱責を軽く無視して、早くとショーンが叫ぶ。必死に手招くその手は震えていた。
「ナナ姉、裏道を通っていこう」
 ショーンがレイを見ながら言った。ナナはレイを見捨てない。けれど、足を引きずるレイと一緒では、襲撃が始まる前に避難所にたどり着くことはできない。ならば、物陰に隠れてゆっくりでも確実に逃げた方がいい。
「……そうね」
 ナナが頷く。しかし、レイは頷けなかった。
「二人はこのまま走れ」
「レイ!」
「今ならまだ間に合うから」
 その言葉が終る前に、ショーンがレイの腕を引っ張った。
「ふざけんな! ナナ姉がアンタを置いていけるわけないだろ!」
「――ガキは黙ってろ!!」
 びく、とショーンの手が止まる。
 レイは驚いて固まっているナナを見た。
「ナナ、ショーンを連れて行くんだ」
「けど……!」
「いいから行くんだ。――ヒューに会えなくなってもいいのか!」
 ナナの目が見開かれる。琥珀色の、綺麗な瞳。
 遠くから、獣がうなるような機械音が響く。
「……あっ」
 そして、何かに気が付いてナナは広場を振り返る。ナナの唇が動く。声は出ていない。
「ナナ……?」
 警鐘はけたたましく鳴っている。何かに気を取られている場合じゃない。だが、レイは見てしまった。ナナが何を見ているか、何に心を奪われているのか。
 ぞ、と全身の血が引くのがわかった。
 気付いた瞬間に、ナナの腕を取っていた。
「――ナナ!」
 広場の中央、時計塔の下。それは、地面に落ちたナナのバスケットから転がり出て、初夏の太陽を受けてきらきらと輝いていた。遠くからでもすぐにわかる。小さな、白い、ヒューがくれた、
 砂、時計。
「だって、あれは……!」
「ナナ、馬鹿っ、死ぬ気か!」
 今にもナナは走り出しそうだった。警鐘がいつの間にかやんでいる。鳴らしていた人間も避難したのだろう。時間がない。レイは焦る。
 駄目だ。あれに気付かせては駄目だったんだ。レイの足ががくがくと震える。
 このままでは駄目だ(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)
「……ナナ!」
 彼女の腕を強く握る。早く逃げなければ、早くここではない場所へ逃げなければ。だが、ナナはレイの呼びかけに反応しない。ただ震えながら砂時計を見つめている。
「ナナ姉」
 今まで黙っていたショーンがナナの隣に並んだ。ナナの顔を見上げ、引きつりながらも笑顔を見せる。
「ナナ姉、僕が取ってきてあげる。あれでしょう? あのきらきら光ってる」
 そう言って、ショーンは広場の時計塔の方を指さす。頭が麻痺したかのように、レイはショーンの言葉が理解できないでいる。頭の中で警鐘だけが響く。駄目だ駄目だ、駄目だ。
「大丈夫。僕、みんなの中で一番足が速いんだ」
 待っててと言うと同時に、ショーンが駆け出した。
「ショーン!」
 叫んだのは、ナナだったか、レイだったか。
 遅れて、弾かれたようにナナが駆け出す。
 その一瞬。

「ナナ!!」

 空から何かが爆発する音が響く。レイの腕はもう何もつかんでいない。空気が揺さぶられる。走っていくナナの背中。
 頭上を黒い影が覆う。
 轟音の中、レイは叫ぶ。自分の叫び声すら耳に届かない。右足が動かないことも忘れ、走り出した一歩目でレイは地面に叩き付けられる。
 影がレイを越えてく。
 一瞬の暗転。轟音。大地が振動する。
 激しい衝撃がレイを襲い、レイは絶望を知る。


 そして静寂。
 レイの耳には何の音も入らない。耳鳴りだけがわんわんと頭の中で鳴り続けている。
 腕を支えに上半身を起こそうとするが、がくりと再び倒れ込んだ。腕がしびれて言うことを聞かない。視界がぐらぐらと揺れている。必死に目をこらすと腕が真っ赤に染まっているのが見えた。
(ああ……これじゃ動かないな)
 無感動にレイは思った。痛みは感じない。何もかもが麻痺したように静かだった。腕の出血がひどくなったようだが、それでもなんとかレイは起き上がることに成功する。
 身体を起こしたレイは絶望を確認する。
 いびつに欠けた土台だけを残し、錆色の時計塔は瓦礫になっていた。瓦礫の中に巨大な戦闘機の尾翼が地面に突き刺さるようにそびえ立ち、砂塵が舞い、小さな火が生まれる。
 街中から煙が上がっていた。時折、地面が小刻みに振動する。爆撃の音にまじって、逃げ遅れた住民の悲鳴が聞こえた。
 砂塵の向こうで、黒い機体が飛び去っていく。
 青い青い空がレイを見下ろしていた。
 ナナの姿は見えない。
(――――ああ、また(ヽヽ)だ)
 レイの汚れた頬を温い涙が伝う。
「また、救えなかった……」
 呟いた声は砂塵の漂う中、誰にも聞かれることなく瓦礫の中に消えた。

 そしてこの日、戦争は終る。



 瓦礫はまだ、片付けられていない。
 ナナとショーンが埋もれていたところだけ、ぽっかりと穴のようになったまま、沈黙している。
 あの日、街の上空を飛んでいた戦闘機が撃たれ、ナナとショーンのいる広場へと墜落した。時計塔の下まで辿りついていたショーンを、突き飛ばす形でナナがかばい、二人は重なるようにして瓦礫の下から発見された。
 幸い、ショーンは足の骨が折れただけですんだが、ナナの命は助からなかった。
 レイは瓦礫の前に立ちつくしていた。何人かがその近くを通ったが、誰もが辛そうに目をそらし足早に立ち去っていく。レイは彼らに気付くことなく、虚ろな目で残骸を見ていた。
「どうしていつも、救えないんだ……」
 レイの口から掠れた呟きがもれる。彼の手の中にはヒューの砂時計があった。傷一つついていない。ナナと、そしてショーンに守られたこの砂時計は、全く傷つくことなくさらさらと乾いた音を立てている。
 あの時もそうだった。
 一番初め、何も知らないままナナを失ってしまったときも、この砂時計はナナの手に守られて残されていた。
 ナナは一人で子共たちにクッキーを配っていて、警報が鳴り子共たちを避難させた後、砂時計がないことに気付き慌てて引き返し、この惨劇に巻き込まれた。ナナの死を知ったレイは、ここで残された砂時計を手に思った。
 もしもやり直せるなら。
 ただそれだけを願った。
 もしもやり直せるなら。ナナを救いたい。何を犠牲にしても、それがこの自分の命でも、やり直せるなら必ず救ってみせるのに。
 そして気が付くと、彼は同じ日のまだ平和だった朝に戻っていた。彼はまず、自分がナナをかばうことを考えた。だが、右足を引きずる彼では無理だった。またナナを失い、ならばと次に彼が戻ったのは、まだ走れた幼いころだった。そこで彼は足に障害を残す事故を起こさず、大人になった。その時彼を待っていたのは徴兵で、戦争が終って帰ってみればやはりナナは死んでしまっていた。
 何度も何度も、やり方を変えてナナを救おうと願った。ナナを広場に行かせないようにと止めてみた。広場ではない場所に、ナナのいる場所に飛行機が落ちた。ナナが気付く前に砂時計を拾ってみた。渡すことが出来ず、ナナは何もない広場に戻ってしまった。
 下手に覚えているから駄目なのだろうかと考えて、危機感だけを残して記憶をなくしてみたが、今回も救うことはできなかった。
 つ、とレイの頬を涙が伝う。
 もう何度、この喪失感を味わっただろうか。全ては意味のないことなんだろうか。
(……ならどうして、俺は過去に戻れるんだ)
 何かあるはずだ。レイは乱暴に涙を拭い、手の中の砂時計を見つめた。
「うわ!」
 どさ、と人が倒れる音がして、レイは振り向く。
 そこには瓦礫に松葉杖を引っかけて転んだショーンの姿と、慌てて彼を起こす一人の男の姿があった。
「……ヒュー」
 喉の奥から掠れた声が出る。軍の制服に身を包んだままのヒューが、ショーンの隣に立っていた。
「なんだよ……今さら」
 レイの険しい声を聞いて、ヒューが顔をゆがめる。
「ナナは――」
 と、呟いた声が途中で途切れた。彼はもう気付いているのだろう。ナナを失ったことに。だが、それを言葉にして確認する勇気は彼の中にない。
 レイの中で何かが爆発する。
「死んだよ! お前がいない間に! ――なぁ、笑って見せろよ、ピエロだろ!?」
 レイ、とショーンの慌てた声が聞こえる。ぼろぼろと止まったはずの涙が頬を伝って落ちた。拭うこともせず、レイは悲しげに眉をひそめたヒューを睨んだ。
「……すまない」
 ぽつりとヒューの呟きが落ちる。声は震えていた。彼も泣いていたのかもしれない。だが、俯いた彼の表情をレイが見ることはできなかった。
「謝るなよ」
 喉の奥から絞り出すようなレイの声が響く。
「すまない。傍にいてやれれば……」
「――謝んなよ! 俺が惨めじゃないか!」
 何度も、何度もナナを助けられるチャンスがあって、ずっと傍にいながら、どうしてもナナを助けることができない。
 謝るのは、謝らなければいけないのは自分の方だ。レイはきつく唇をかむ。けれど、どうしても喉に詰まって声が出ない。それはまるで、ナナを助けるのを諦めてしまうように思えて。
「……すまない」
 震えるヒューの声が再び落ちた。レイはもう何も言わなかった。その代わりなのか、砂時計を握る手の力が強くなる。さら、とかすかな音がする。ヒューの視線が砂時計をとらえて止まる。
「それは――」
「僕が守ったんだ」
 二人の間でショーンが呟いた。
「ナナ姉が忘れて、それで取りに行こうとしてたから、僕が取りに行ったんだ。でも、間に合わなくて……ナナ姉が助けてくれて」
 ショーンの目に涙が浮かぶ。
「僕が取りに行くなんて言わなかったら……こんなことにはならなかったのかな」
「……君のせいじゃない」
 ぽろぽろと涙をこぼすショーンの目線に合わせ、ヒューがしゃがみ込む。そして静かにその頭を撫でた。
 それからやさしい声で、つき合わせ悪かったねと謝り、家へ帰るように諭した。ショーンが去っていくのを見守り、その姿が通りの向こうへ消えたとき、
「もしも砂時計がなければ、ナナは……」
 そうヒューが囁いたが、それ以上の言葉は続かず静かな風が流れた。



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