戻る

砂の向こう


1、始まりの庭にて、終焉の灯

 俺の故郷はさ、
 と、青年は子供のように語った。歳は十八歳ぐらいだろうか、汚れたぼろぼろの服を着ていて、茶色い髪の所々が黒ずんでいた。
 俺の故郷はさ、時の夕焼け(サンセット・オン・ザ・タイム)、だなんて言われてて、時計工の街だったんだ。街中に時計工が何人も何十人もいて、腕を競い合ってた。
 その街の中央に大きな時計があって、それ、小さな塔みたいな格好してて錆びた鉄みたいな色をしてたんだけど、夕日に照らされるとその錆色が逆に綺麗で……わかるかなあ、夕日の中にどっしりと時計がかまえてる感じ。
 青年の手が宙に浮き、何かをかたどるように動く。
 ……実物を見せたいなあ。ああ、そういえば、時計の技術が発達したのも、その美しい夕日を克明に刻むためだったんだ――って、親父が言ってたなあ。
 訥々(とつとつ)と青年は語り続ける。
 青年の傍らで、ひとりの少女が相づちも打たず、ただ黙って聞いていた。
 少女は、遠い故郷を思う青年を見ていた。
 周囲は暗い。
 全くの闇に包まれた空間に青年と少女はいた。二人を照らす灯は、そのそばにある古びた街灯だけ。街灯の足元のわずかな空間だけが、小さな島のようにぽっかりと闇の中に浮かんでいた。
 不意に、青年が少女を振り返った。洒落た細工の施された椅子に座っているおかげで、小さな少女を見上げる形になる。
「君は見たことある?」
 あの街の夕日を、と青年が少女に尋ねる。
 少女はじっと青年を見つめてから、ゆっくりと左右に首を振った。亜麻色の髪がさらりと広がり、そして元に戻る。その様子に青年の目が懐かしそうに細められた。彼の年齢にしては大人びた仕草だった。
「そうか。もし、あの街に行く機会があったら一度見ておくといいよ。……本当に、綺麗だから」
 青年が再び遠くへと視線を向ける。その視線を追っても、そこには闇があるだけだ。だから少女は青年を見つめ続けた。
「――ここの夕日も綺麗ですよ」
 青年が話を再開する前に、少女が口を開いた。鈴のようなかわいらしい声だった。
「へえ……ここにも夕日ってあるんだ」
 青年は少し笑い、それから首をわずかに傾けた。
「俺は、そのときまでいられるかな」
「たぶん」
 一人言のような呟きに、少女が短く答える。
 青年はそっか、とはにかんで、それから苦痛を堪えるように顔をしかめた。
「でも、君には悪いけど……あの夕日より綺麗だと思う夕日はきっとない」
 脳裏を焼く美しいままの夕日。
 今でもありありと思い浮かべることができる。その中に立つ彼女の姿とともに。
 彼女が振り向くと、そのやさしいの光を宿した琥珀の瞳が彼を見る。細い腕が夕日の中で伸ばされる。その腕に触れる。風に白い服の裾がはためく。声がする。彼を呼ぶ声がする。彼女の隣には微笑むもう一人の青年がいる。二人が彼を呼んでいる。
 全てが明々(あかあか)と夕日に染まっている。
(もっと、何度でも、名前を呼んでおけばよかった)
 胸を埋めるかすかな後悔。
 声がする。明るい彼女の声が。耳鳴りのように繰り返している。
 全てを包んだ夕日の、一瞬一瞬が、心に刻み込まれたまま。
 消えない。
「それでいいんですよ」
 少女の声がして、闇の中に沈黙が落ちた。
 闇と街灯だけが残された世界で、時間という感覚は遠い存在になる。曖昧に漂う時間は、砂時計のように落ちては戻り、戻っては落ちて、少しずつ正しさを失っていく。
 永遠のような一瞬、一瞬のような永遠。
 果てしない、そして刹那の沈黙が過ぎる。
「あ」
 と、青年が言った。
 少女が男を振り向くが、青年は前を見つめたまま呆然として動かない。
「……夕焼けだ」
 絞り出すように青年が言った。
 少女は前を見ない。ただずっと、青年の横顔を見つめている。
「――……ああ、なんだ、あの夕焼けじゃないか」
 周囲は暗闇に包まれている。
 二人を照らす唯一の灯は、古びた街灯のそれだけ。少しくすんだようなその色は、これまでもこれからも、ずっと変わることはない。
 だが少女は、うわごとのように呟いた青年の目が、鮮やかな夕焼けを映しているのを見た。溢れる感情を抑えられず歪んだその表情も赤く染まり、濃い影が伸びている。
 彼だけが、彼の夕日の中にいる。
「あの街だ……俺は、俺は――――帰ってきたんだ」
 幸せだった自分たちを照らしていた、あの夕日の中に。
 見開いたままの目から、涙が零れる。
 鮮やかな赤い情景をその中に閉じこめて、それは頬を伝う。
 ぽたり、
 と、青年の膝が濡れたとき、彼の目が静かに閉ざされる。

 ――――帰って、きたんだ。

 呟きとともに、青年の姿は闇に溶け込んでいった。



2、時計工の街

 その日、世界は眩しかった。
 夕べ、カーテンを閉めずに眠ったらしい。窓から燦々と朝の光が入り込んでいた。瞼の内側で眩しさを感じながらレイはまどろむ。疎ましくはない。似合わない祈りを捧げたくなる。そんないい気分だった。
 肌触りのいい長年使い込んだ上掛けをかぶり直して、猫のように丸くなる。カーテンを閉めに行く気分ではないし、目を開けるつもりも全くない。もう一度眠り直そうとしたとき、時計がけたたましい音を立てた。
(……なんだ。もうそんな時間だったのか)
 薄い陳腐な鐘を、小さなハンマーが叩く。亡き祖父手製の目覚まし時計は、まだ子供だったころにもらったせいで、鳴り始めから音が無駄に大きい。おそらくは寝坊しがちな孫への心遣いだったのだろうが、とっくに成人を迎えたレイにしてみれば大きなお世話だった。
(さすがに音量いじろうかなあ)
 身体を起こし、古ぼけた時計の音を止めながらレイは考える。今では片手に乗る小さな時計だが、壊れたときも最低限の修理しかしてこなかった。丁寧な作りの端々から祖父の温もりを感じる気がして、必要以上にはいじれなかった。
(まあ……いいか)
 そういえば、いつだったかも同じようなことを考えて、同じような結論に達したっけと自然と笑みがこぼれる。けれど、いつだったろうか。もう何度も同じことを考えたはずだが、具体的な時期は思い出せない。
「いつ、だったかな……」
 首を傾げて考えていると、そんな既視感すらにも既視感を感じてしまって、頭が混乱してきた。
 寝台に座り込み何度も首をひねっていると、ドアの向こうから朝食の美味しそうな匂いが漂ってきた。ぐぅ、と胃が先に反応する。身体は正直だ。
 レイは不思議とおかしくなり、肩を揺らして笑った。依然として彼の胃は、そんなことより早く食事を、と訴えている。
 よ、と一声かけて立ち上がると、寝台が小さく軋む。右足が少し遅れるが、もうとっくに慣れたもので彼はさして気にしなかった。
 朝日が射し込む窓に背中を向けて歩き、ドアを開ける。朧気だった美味しそうな匂いが、確かな存在として彼の五感を刺激する。
(ああ、今日はひよこ豆のスープか)
 そういえば、夕べ母親が珍しくひよこ豆が手に入ったと喜んでいたっけ。レイは思い出す。レイと母親、そして父親三人そろっての好物であるひよこ豆は、山を三つ越えた先が産地で、戦争が勃発し物流がままならない現在、滅多にこの街で売られることはない。
 胃がますます自己主張をしだし、レイの表情が苦笑に変わる。成長期はとうに過ぎたっていうのに。
 ふ、とレイの顔から笑みが消え、ドアを閉める直前、彼は朝日に満たされた部屋を振り返った。
 何か言いたげに口を開いたが、彼自身も何を言いたいのかよくわからず、結局すぐにドアを閉じてしまった。
 朝日に照らされる小さな部屋は、静かにその光を甘受して佇み、きらきらと、まるで新しい朝を喜ぶように微笑んでいた。

 窓から入る朝の日射しが、食卓を挟んだレイと彼の母親を照らしている。遠くから鳥の声にまじって、動き出した街の音が聞こえる。
「基地でもひよこ豆は出るのかしら……」
 ぽつりと母親の口から出た呟きに、レイの手が止まる。
「……どうだろう。別に高級食材っていうほどのものでもないし、父さんが配属された基地は産地と結構近かったはずだし」
 あえてゆっくりと、ひよこ豆のスープをかみ砕きながら喋る。口の中で広がる味には懐かしさがにじんで、好物を食べているという実感があまりわかない。
「そうね、わたしたちよりは食べる機会、多いかもね」
 寂しげに母親は微笑む。
 レイの父が徴兵され、遠い基地に向かったのは半年前。時計工だったおかげで、他の時計工たちと同様、戦地には飛ばされず技師として働いているらしいが、彼からの手紙は滅多に来ない。
 朝日の射し込む窓辺には、家族で並んで撮った写真が立ててある。父親が基地へ立つ前日に撮ったものだ。彼は軍のエンブレムが入った技師の制服を着て、もともと生真面目な顔を更に生真面目にして立っている。
(そういえば、父さんと真っ正面から向き合ったことってあまりなかったな)
 レイの中にある父親の姿はいつも後ろ姿だ。仕事場で作業をしている後ろ姿。遊びに連れて行ってもらったときの後ろ姿。仲が悪かったわけではなく、寡黙な父とさしてお喋りでもない息子、そういう関係が一番自然だった。
「いやだわ、辛気くさくなっちゃって。ほら、レイ、そろそろ急ぎなさい。お店開けるの遅くなっちゃうでしょう」
 カタン、とわざとらしく音を立てて母親が席を立つ。忙しそうに食器を持って台所へ引き返す姿は、ずいぶんと小さく見えた。
 どうしようもないのだ、と思う。
 戦争も。父親がいないことも。必死に押し隠そうとしている不安も。父親だけを行かせてしまった罪悪感も。
 無意識のうちにレイの手が右足に触れる。幼いころ、やんちゃをしすぎたせいでその足はもう走ることができない。日常生活ならそれほど支障はないが、兵力としては役立たず。軍医はそう言って、徴兵しない旨を彼に伝えた。
 短いため息が口をつく。
(……と、もうこんな時間か)
 横目に入った時刻は、かなり差し迫ったものになっていた。少しだけ慌てて食器を片付け始める。
「ごちそうさま」
 食器を洗い始めている母親に声をかけながら、重ねた食器を近くに置く。
 かしゃん、と音が鳴った。
「あ、そうそう、お弁当作るの忘れちゃって」
 振り向いた母親が、申し訳なさそうに笑う。見馴れた笑顔にレイは少し安心する。
「また?」
「もう、そんなにしょっちゅう忘れてるわけじゃないでしょ。後でナナちゃんに預けるから」
「……ナナに?」
 隣に住む幼なじみの名前が出てきてレイは首を傾げる。
「この後会うのよ、クッキーの作り方を教えてあげるの。中央広場で子共たちにあげるんですって。それなら通り道でしょう?」
「ああ、そういうこと」
 ナナには母親がいない。彼女の父親もやはり時計工で忙しく、昔はよくレイの母親がレイと二人まとめて面倒を見ていた。ナナの父親もまた、戦地で技師として働いている。
「じゃあ、行ってくる」
「気をつけてね」
 戦争が始まるまで、母親の口からこんな言葉が聞けるとは思ってもいなかった。
「わかってる」
 困ったように笑いながら、レイは母親に背を向けた。


 カランコロン、とドアについている鐘が鳴った。
 祖父から父に譲られたクレイバー時計店は、こんな事態にならなければ、まだレイの手にあまるものだった。
 潰すなよ、という短い言葉とともにレイの手に預けられた鍵は、半年経った今でも重く感じる。
「レイ、ごめんね、遅くなっちゃった」
 ドアの向こうから現れたナナが、カウンターにいるレイに声をかける。亜麻色の髪にふっくらとした健康的な頬、アーモンドのような形の眼。ナナは、美人だ。
 首をめぐらせて背後にある作業場の時計を見れば、まだ正午を迎えたばかりだった。
 店内には大量の時計があるが、どれ一つとして正しい時間を刻んでいない。全て正確にそろえると客が怖がるのだと、祖父がいつだったか言っていたのを思い出す。
「遅くなんかないよ、ちょうどいいくらいだ。ありがとう」
 ナナの白い手から、弁当の入った包みを受け取る。
「クッキー、うまく作れた?」
 大事そうに抱えられているバスケットを見ながら問いかける。ナナが満面の笑顔になり、もちろん、と弾む声で言う。現れたナナの表情を見れば聞かなくてもわかることだったが、あえて口にしたのはこの笑顔が見たかったからだ。
 いつからか、ナナが笑えばレイは幸せだった。
「レイの分、小母様に預けてあるから、帰ったら食べてね」
「母さんに? ……まいったな、俺、いくつ食べられるだろ」
 レイが呟くと、くすくすとナナの笑う声が聞こえた。甘いものには目がないレイの母のことを思い出しているのか、その表情はとても楽しそうだ。
「大丈夫、たくさん残してきたから――ちょっと焦げたのとか」
「俺に腹を壊せって?」
 笑いながら言うと、ナナはぺろりと小さく舌を出して言った。
「冗談よ。そういうのは私と小母様のお腹の中です」
「じゃあ、母さんに胃薬でも買って帰らないとな」
 レイがにやりと笑えば、ナナは堪えきれずに吹き出した。
「失礼な人ね」
 花がこぼれるようにナナが笑い、レイも一緒になって笑う。兄のように弟のように、姉のように妹のように、ともに育てた心地好い空気が二人を包んでいた。
 まぎれもない幸福がそこにあった。
 笑いながら他愛ない話をする。今朝、久しぶりにひよこ豆を食べたよ。次はケーキを作ってみたいの。じいちゃんの時計、直そうかと思ったんだけどさ。クッキー、食べたら感想ちょうだいね。
 時計の長い針がゆっくりと一番下を向いたころ、レイの視界の端で何かが光った。
 砂時計だ。
 ナナのバスケットの中に砂時計がちょこんとおさまっている。彼女の掌におさまる大きさで、質素だが凝った細工の施された白い砂時計。見覚えのある――というよりありすぎる、レイとしてはあまり見たくない砂時計だった。
「……ナナ、それ」
 砂時計に目配せをしながらナナに訪ねる。
「ええ、今日が出撃日なんですって」
「――手紙、来たの?」
 誰から、とは言わなくてもわかる。
 ナナの目が悲しみに揺れた。
「ようやく。あまり詳しいことは書いてなかったけれど、夕方にこの近くを飛ぶらしいの」
 作ったような笑顔が痛かった。そんな笑顔が見たいわけじゃない。レイまで眉をひそめてしまいそうになるのを必死で押し殺し、時計を振り返る。正午から一刻ほど過ぎていた。
 ナナを一人にしたくない。どうしようかとレイが逡巡していると、突然、黒い影が頭上をよぎったような気がした。ぎくりとして、天上を見上げる。そこにはいつもと変わらない、質素な天上があるだけで、レイはほっと息を吐く。
「どうしたの?」
 ナナがレイの顔を覗き込む。レイは我に返って、何でもないと苦笑する。
 黒い影。気のせいだろうか、不思議な既視感と焦燥感がレイの中に生まれる。見覚えがある。思い出せなくてレイは焦る。
「……俺も行こうか、広場」
「え?」
 考えるよりも先に言葉が出ていた。唐突な言葉にナナがきょとんとする。レイは慌てて適当な言葉を紡ぐ。
「いやほら、どうせお客さんも来ないだろうし、父さんには内緒で臨時休業して」
 年中無休が祖父と父の口癖だったが、こんなご時世でこんな事情だ。ナナを放ってはおけない。いたずらっ子のようにレイは笑ってみせる。そんなレイを見て、つられたようにナナが微笑む。
 今はナナが笑ってくれるだけでいい。笑うナナを見てほっとする。
 胸の奥で疼く不安に気付かないふりをして。



次頁 + 戻る