戻る
X 親友 ---- There is only the death, not God.

 再び訪れた世界は暗かった。
 ガラスの破片が散らばった教室には誰もいない。ゆらりと、廊下を影が歩いていた。
「さっきまで現実と繋がっていたから、ここでまた開くのを待ってるんだろ」
 影を見て、忌々しげに将真が吐き捨てた。
「言っとくけどな、ここを通って戻ろうなんて考えるなよ。通れば通るほど穴は広がってすぐには塞がらなくなるならな」
「わかってるよ」
 割れた窓を見る。瑛の握り拳程度の虚空がぽっかりと浮かんでいた。遠くに月が浮かんでいる。
 早く完全に塞がればいい。そうすれば、自分はどうなっても構わない。死に囚われて眠り続けたっていい。うごめく影となってこの街をさ迷うことになったっていい。どちらにしろ、一人ではない。
 瑛、と名前を呼ばれる。
 将真はもう入り口の向こうに立っていた。早く食堂に行こうぜ、とは言わなかった。
「なあ、なんで急に暗くなってるんだ?」
 将真に歩み寄りながらそう聞いた。試しに電灯をつけてみたが反応はなかった。
「こっちはいつもこんなもんだ」
「え、でもさっきは」
「誰か人間がこっちに来ると、しばらくはああなる」
 瑛が追いつくと、将真はさっさと歩き出してしまった。並ぼうとしてもさらに先に行かれる。顔を合わせる気はないらしい。
「……将真?」
「なんだ」
 彼は振り返らない。
「なんで、俺をここに連れてきたんだ?」
「さっきも言っただろ、死に近づくためだ」
 声には抑揚がなかった。面接官にあらかじめ用意してあった答えを言うみたいに聞こえた。
「なんのために? 死に近づいてどうするんだ?」
「……何をしてでも叶えたい願いがある、それだけだ」
 絞り出すような声でそう言った。瑛は口を閉ざす。
 なにをしてでも叶えたい願い。たとえば、瑛が七瀬を守りたいと思うような。
「そっか……」
 窓の向こう、死の住む城を見つめていた将真の顔を思い出す。痛みを堪えるような目。彼も失ったのだろう、誰か大切な人を。そしてその人は死の元にいて、その人のために瑛をここで連れてきた。
 それが、どれだけ瑛を苦しめることでも。
「でも、どうして俺だったんだ? お前は俺の方が死に愛されてるとか言ってたけど、お前だって愛されてることに変わりはないんじゃないのか?」
 歩きながら、将真が暗い天井を見上げる。
 少しの間思案するようにそうしたあと、ゆっくりと話し始めた。
「この世界へ足を踏み入れる者には二種類いる。愛されなかった奴らは別だけどな」
 そう言ったところで、ちょうど昇降口に辿り着いた。
 瑛が靴を履き替える間、将真は少し離れたところで待っていた。彼はすでに運動靴を履いている。そういえば、現実に戻る前からずっとそうだったかもしれない。
「死に愛された者と、好かれただけの者」
「……なにが違うんだ?」
 また将真が先に歩き出す。
 外に出でも寒さは感じない。きっとここには季節がないのだろう。冬なんてなければいいと何度も思ったのに、ここはなんて虚しい。吐く息が白く変わることも、冷たさに頬がピリピリと痛むことも、カイロが手放せなくてからかわれることも、なにがそんなにいやだったのかとさえ思う。
「死に愛された者は、あの手この手でここまで連れてこられる。タナトスって奴だな、死への欲望は誰にでもある。で、死の前に辿り着いた時点で終わりだ。永遠に眠り続ける」
「じゃあ、好かれただけの人は」
 街は静寂に包まれていた。闇に閉ざされる前は、それでも様々な音が存在していたのだと気付く。きっともうバスも電車も動いていない。
 将真が横断歩道も信号もなにも気にせず道路を横切った。
「俺みたいにこの世界での自由を与えられる。現実に少しだけど干渉することも出来る。その代わり死の前へは行けない。近づくことは出来ない」
「……だから、俺を?」
 振り向くことなく将真は歩く。上着のポケットに手を入れて、面倒くさそうに歩く後ろ姿は、今までとなにも変わっていないのに。
 まるで、以前のように隣に並ぶことを恐れているようだ。追いつこうとする瑛を拒絶する。
「俺が死に好かれたのも、お前を連れてくる餌だろうな。お前はここに来るような性格でもねえだろ」
「性格?」
「簡単に言や、死にたいって思ってるようなヤツらさ」
 確かに瑛は繊細そうな外見に反して、意外と図太い。落ち込んだり疲れることはあっても、死にたいだなんて一度も考えたことがない。
 いつだったか、はじめは女々しくて面倒くさい奴かと思ったと、将真が笑っていたのを思い出す。あれはいつだったろう。たぶん初夏。眩しくて瑞々しい景色が窓から見えた。夏服を着て、二人で屈託もなく笑い合っていた。
 それがこんなにも遠い。
「そういうところが逆に好かれたのかもしれねえけどな」
「いい迷惑だ」
 吐き捨てると、将真が笑った。らしい。肩が上下に揺れる。
 その背中がやけに痛々しく見えて、瑛は足を止めた。水晶によく似た城が目の前に迫っていた。
「……お前は」
 離れたところから聞こえた声に、将真が振り返る。戻ってきてから、はじめて彼の顔を真正面から見た。
「なに、びびってんの?」
 からかうように笑う。
 将真の後ろにそびえる、黒い城は確かに威圧感を感じさせる。水晶のように冷たく輝く外壁を、空にかかる月がさらに無情に浮かび上がらせている。死の住む城だ。その冷たさがひしひしと伝わってくる。
 だが瑛は首を左右に振った。死の城を目の前にして、胃が絞られるような緊張を感じてはいる。けれど覚悟は出来ていた。将真を呼び止めたのはそんなことじゃない。
 喉がからからに渇いて、最初の一言が出てこない。震えていた。
 将真が眉をひそめる。瑛、と呼びかけるのを遮るように、ようやく声が出た。
「お前は、死にたかったのか?」
 この世界を訪れる者は、死を望む者。そして将真はおそらく誰かに呼ばれることなくこの世界へ辿り着いた。
 将真の笑顔が頭に浮かぶ。
 何度も彼の笑顔を見てきた。
「そうだ」
 感情を押し殺した声で将真が答えた。
 ぐっと、歯を食い縛る。目が熱い。胸が詰まる。
「……なんでお前が泣くんだよ」
 将真が呟いた。掠れた、今にも泣きそうな声で。
「ごめん……、今まで、気付かなくて……」
 誰よりも傍にいたと思っていたのに。
 言葉にしなくても、親友だと思っていたのに。
「ばかだな、お前……」
 将真が空を仰いだ。
 彼は笑っていた。
「俺は、謝らないからな」
 空を見上げたまま彼は言った。先刻までの感情のない声とは違う、わずかに震えてはいたが、どこかすっきりとした声だった。
 そして瑛を見つめて苦笑する。
 瑛があわてて手の甲で乱暴に涙を拭うと、彼はふと何かに気付いたように後ろを振り返った。
 死の城の向こうで、冷たく冴え冴えと輝く月。
 そういえば屋上のときもこんな月が出ていた。
 もしかしてこの世界には、月の満ち欠けもないのだろうか。半月でも満月でもない、不安定な形の月。満月にはわずかに満たされず、半月ほど欠けてはいない。永遠に、中途半端なまま夜空をさ迷うのかもしれない。
「瑛」
 将真が月を見つめたまま言った。硬い声だった。
 月明かりに照らされる横顔は、作り物のように見える。
「覚えておけよ。この世に神などいない。ただ人の顔をした生と死があるだけだ」
 将真は月を睨んでいた。恨むように、きつい目で。
 彼は、祈ったのかもしれない。こんな風に月を見上げながら。それでも彼を救う者はなかった。だから彼は辿り着いた。この冷たい夜に。
 目をそらすことなく、将真の横顔をずっと見つめていた。
 そらすことなど、出来なかった。

   *

 どれほど月を見上げていただろうか。行くか、と将真が死の城へと身体を向けた。
 瑛もそれに続く。隣に並ぶことはしなかった。
 水晶のような建物は、近づいてみるとのしかかるように圧倒的な存在感を放っていた。入り口らしき扉も、壁と同じ素材で作られているらしく、不気味な光を反射している。よく見れば細かく細工が施され、瑛は壮麗な教会建築みたいだと思った。
 いつだったか、建築家になりたいと言ったことがあったっけ、と力ない笑みが浮かぶ。
 将真が扉に手を触れると、重苦しい音を立てて左右に開いた。瑛の身長の二倍は軽くありそうな扉だ。
「迷うなよ」
 一瞬だけ瑛を顧みて、将真はすぐに城の中へと入っていく。扉の向こうは、真っ暗な闇だった。なにも見えない。中に入った将真の後ろ姿もすぐに消えてしまいそうだ。
「将真!」
 慌てて追いかける。後ろで扉が再び重苦しい音を立てて閉じた。完全に閉ざされた瞬間、大きな音が城中に反響して、瑛は身がすくむ。
 一切の闇だった。前を歩いていた将真の姿も見えない。
「将真……! どこにいるんだ!?」
 恐怖で一歩も動けなくなる。暗闇をこんなに恐ろしいとは思わなかった。こんなに恐ろしい暗闇は見たことがなかった。ほんの少し足を動かしただけで、奈落の底に落ちるのではないかと思えた。
「いるんだろう、将真!」
 叫んだとき、少し先で青い光が灯った。将真の顔が映し出される。自然と瑛の口からほっと安堵が漏れる。
 光を連れて将真が戻ってきた。どうやら燭台のようなものに火を灯したようだ。暗闇の中で青い灯が怪しく揺れる。
「行くぞ」
 将真が顔で奥を示す。その動作に合わせるように、暗闇の奥の方で青い灯が灯った。
 廊下はずいぶん長いようだ。横幅はわからない。少し離れたところにずいぶん高い柱が何本も並んでいる。柱を立てなければならないほど広くて高い空間なのだろうか。廊下というより、ホールみたいだ。
 足音が大きく響く。
 迷うな、と将真は言ったが、明かりが彼の持つ燭台だけでは迷いようがない。はるか彼方にも青い光が灯っているが、燭台がなければまともに歩くことも出来ないだろう。
(死の、住まう城か……)
 暗く閉ざされたこの空間は、確かに死そのもののようだ。灯る炎さえ、冷たい青。徹底している。
「将真はここに来たことがあるのか?」
 沈黙が苦しくて、瑛は訪ねる。
「ああ」
「どうだった」
「暗くて逃げ帰った」
 思わず言葉を忘れる。意外だ。
「それからしばらくして、何回か影を喰ったあと、もう一度ここへ来た」
「どうして?」
「呼ばれた気がした」
 誰に、と聞いていいか迷う。ためらっている間に、将真は続きを口にした。
「ここを暗いとは思わなかった。扉も閉まって、明かりはどこにもないのに、周りが全部見えた」
「……え」
「影を喰って、俺は影になったんだと思ったよ。実際、そんなようなもんだった」
 瑛の姿は七瀬にもクラスメイトにも見えたのに、将真の姿は見えなかった。影たちと同じように、瑛の目にしか映らなかった。
「お前もいつかそうなる」
 影と同じ存在に。
 人の目に映らない、現実にはいられない存在に。
「ああ……、お前はその前に眠っちまうか」
 どうでもいいことのように将真が呟いた。
 そのことに、心臓が痛む。もう何度も経験したのに、その痛みに慣れることはなかった。瑛はどうしても、将真への信頼をなくすことが出来ない。どんなことがあっても彼は瑛の親友で、逆もそうであればいいと願ってしまう。

  それでも、
  願いが叶うなら

 長い間歩いていた気がする。
 はるか彼方に見えていた青い光がようやく近くに見えてきた。試しに後ろを振り返ってみたが、闇があるだけだった。なによりも深く暗い、純粋な闇。
 圧倒的な、死。
「瑛」
 呼ばれて前を向く。
 目の前に扉があった。入り口の扉よりは小さい。その脇に燭台が壁に作られている。何か象徴的な物が彫られているようだ。青い灯の揺らめきに合わせて、それ表情を変える。
「……この先に、死がいるのか?」
 今にも震えそうになるのを堪えながら、瑛が聞いた。
 燭台の灯を消して、扉の脇に片付けていた将真は笑ったようだった。
「俺も知らない。ここから先は行ったことがない」
 つまり、死に愛されたものだけが入ることの出来る空間。
「覚悟は出来てるか?」
「当たり前だ」
「安心しろよ、死に穴を塞いでくれって頼む時間ぐらいはあるだろ。頼む時間ぐらいしかないだろうけどな」
 ぎり、と胃が痛んだ。
 永遠の眠りがどんなものかはわからない。想像も出来ない。今から殺します、と言われた方がまだ実感がわく。
 けれど、この扉の向こうに死がいる。それが伝わってくるのか、気を抜けばこの場にへたり込みそうになる。あんなに恐れた暗闇の中へ逃げ出したくなる。
 将真が瑛を見た。
 そして彼が辛そうな顔でなにか言いかけたとき、目の前の扉が、ぎ、と鳴った。
 何十年も閉ざされていたかのような重い音を立てて、ゆっくりと本当にゆっくりと扉が開いていく。
 少しずつ向こうが見えた。
 闇が満ちていることに変わりない。だがその闇は、あきらかに密度を増していた。その闇の向こうにいくつも青い光が灯っているのが見える。
「行けるか、瑛」
 真剣な目で将真が問いかける。
 今更だ。
「……行くぞって言えよ。もう、行くしかないだろ」
 先刻まで有無を言わせず引っ張ってきたというのに、肝心のところで瑛の意思を聞くなんて残酷だ。
 それが伝わったのか、将真が少し笑った。懐かしい笑い方だった。
「そうだな、行くぞ」
 二人同時に扉の向こうへ足を踏み入れる。
 隣に並んだと気がいたのは、背後で扉の閉まる音が響いたときだった。それが、本当に最後だと言われているようだった。
 闇の中に青い光がいくつも浮かんでいる。先刻までと違って、明かりは多くあるはずなのに、その空間の全容はまったくわからなかった。格段に広いことだけは伝わる。
 部屋の奥に青い光が密集していた。壁に向かって半円状の階段が作られ、その中心には誰も座っていない空の玉座があった。
 そして、玉座の左右、壁に並ぶように、なにかが立っていた。
「……あそこに、死がいるのか?」
 瑛が呟いた。玉座には誰も座っていない。それとも死とは不可視の存在なんだろうか。
「たぶんな」
 どこか上の空で将真が答える。
 彼は玉座を見てはいなかった。その左右に並ぶなにかを憎んでいるように睨んでいた。
 二人はゆっくりと、何度も恐怖にすくむ足を叱咤しながら、玉座へと近づく。
 階段のすぐそばまで来ても玉座には誰も現れなかった。空の玉座を見上げる。目に飛び込んできたものに、瑛は言葉を失った。将真が隣で息を飲む。
 玉座の周りにあった、なにか。それは人だった。人形のようにただ立っている。生きている人間ではない。あきらかに彼らからは何かが失われている。
「あれが……死に愛された人たち」
 呆然と瑛が呟く。
 視線をめぐらせれば様々な人が眠っていた。
 少女、壮年の男性、青年。誰もが喪服のように黒い服を身に纏って、呼吸もせずに、死ぬこともできずに。
「――父さん!」
 懐かしい面影を見つけた瞬間、反射的に駆け出そうとして、階段に足を取られた。倒れ込みそうになるのを将真が片手で支えてくれる。中途半端に支えられて、片膝を打ち付けた。
 痛みは感じたはずなのに、足は簡単に動いた。混乱して痛みを知覚していないのかもしれない。何かに追いやられるように、二人は玉座へと歩き出した。
 歩きながら将真の右手になにかが握られていることに気付く。だから左手一本で瑛を支えたのか。少し気になったが、彼の身体と暗闇に隠されて、それがなにかはわからなかった。
 問いかけようか逡巡している間に、階段が終わってしまう。目の前に玉座があった。
 心臓が跳ねる。
 空の玉座は、華美な装飾もない質素なものだった。くすんだ金の縁に、暗い赤の布地が貼ってある。扉に施されていたような細工は見られず、それが逆に玉座を引き立てた。
 恐怖が全身をめぐる。
 死はそこに居る(ヽヽ)。感覚でそれを理解する。
 周りで眠る者たち。その冷たい横顔が見える。
 自分もそうなるのだ、と思えば心臓が潰れるのではないというほど痛んだ。将真の顔をうかがえば、今まで見たことがないくらいに強張っている。
 そういえば、彼はどうなるのだろう。死に好かれたものは、死に会うことはない。それが会ってしまったら。
 できるなら、将真の無事を見届けてから眠りにつきたいと願った。
 覚悟を決めて玉座を見つめる。
 ゆらりと、影が動いた。
 それは玉座の上でゆっくりと人の形を取る。
 美しい男だった。背が高く、顔に血の気がない。生きている人間の顔ではないが、それが逆に美しいと思わせる。長い漆黒の髪が髪に溶けるように広がった。ふわりと、同じ闇色をした衣がひるがえって、死は全貌を見せた。
《――よく来た》
 声が響いた。死の口は動いていない。この空間全体から声が響いてきたようだ。
 死の出現に呆然としていた瑛は、必死で自分を落ち着かせる。
「あの、現実との境界に開いた穴を、完全に塞いでくれますか?」
 死が首を傾げて瑛を見る。深い、深い闇の色をした瞳だった。
「お願いします」
 その目を見ていたくなくて瑛は頭を下げる。
 死が自分を凝視しているのがわかる。
《よかろう。穴が穿たれたこと、私もよくは思っていない》
 瑛の全身に安堵が広がった。これで七瀬が、現実がおびやかされることはない。
 あとは眠るだけ。
 顔を上げて、再び死の目を見たとき、瑛はあ! と声を上げた。
「将真は、こいつはどうなりますか? あの、できれば現実に――」
 こいつと将真の腕を取って、瑛は気付いた。
 死は一度も将真を見なかった。そして今も見ようとしていない。
《前に立て》
 瑛の訴えなどなかったことのように死は冷たく言い放つ。実際、耳に入っていなかったのかもしれない。死の視界に将真は映っていない。死に愛されないとは、そして愛されるとはこういうことか。
 瑛の胸に氷塊が滑り込む。それは絶望に似ていた。
「俺のことはいい」
 ぽつりと将真が呟いた。
 瑛は力なく頷く。ごめん、と呟いたが、声にならなかった。
 死の前に立つ。今にも心臓が止まりそうだった。
 ゆっくりと色のない死の手が持ち上がる。氷よりも冷たい手が瑛の胸に触れた。
「―――――……っ!」
 心臓から、なにかが出て行く。影を喰ったときと逆だ。自分の中身が死に吸い込まれていく。死の周りで眠る者たち。誰もがこうして奪われたのか。なにもかもを。
(死に、喰われて――)
 感情のない死の瞳がまっすぐに瑛を見ている。
 手が冷えて、感覚がなくなってきた。なにも考えられない。

  それでも、
  願いが叶うなら

 衝撃は、一瞬だった。
 赤い色が散る。
「……しょう、ま……?」
 掠れた声が喉から出た。赤い血がこぼれる。
 瑛の胸から、血に染まった銀の刃が突き出て、死の手を貫いている。
(ああ、そうか――――)
 階段を上るときに持っていたのは、これだったのか。納得がいって瑛は笑う。でもどこでこんなもの手に入れたんだろう。たぶん燭台を置いた扉のところに隠しておいたんだろうけど。
 やけに落ち着いていた。もしかしたら、わかっていたのかもしれない。
 衝撃から一拍おいて、死の悲鳴が耳をつんざいた。
 人の声ではない。獣の咆哮によく似た音が、空間を揺らす。
「悪いな、瑛。俺もすぐに逝くからよ」
 耳元で声がして、ずるりと刃が胸から抜かれた。熱い。
 力が入らずに膝をつくと、死の手が見えた。瑛の血で汚れた手からは、血の代わりなのか闇が霧のようにあふれている。咆哮がさらに空間を揺らす。
「――――…………!!」
 獣のように笑いながら、将真がなにかを叫ぶ。その声は死の絶叫にかき消されて瑛の耳には届かない。
 ぐら、と視界がぶれた。瑛の意識が途絶えたのではなく、空間そのものが揺らいだ。
「……な、に?」
 どこからともなく光が生まれた。
 闇を切り裂く真白の光。不思議と眩しくはない。暖かな光が瑛の身体を包んで、寒さで震えていたことに気付く。
 やさしい声が聞こえる。いつの間にか死の絶叫は途絶えていた。
 名前だ。
 誰かが名前を呼んでいる。
 まばゆい光に包まれて、なにも見えなかった。玉座も、並んで眠る人たちも、青い炎もない。将真もいない。
「しょう、ま……」
 胸の傷が思い出したように鋭く痛む。血が溢れ出して止まる気配がない。
(……死ぬ、だろうな)
 傷は痛んだが、瑛は穏やかだった。
 あの暗く恐ろしい空間よりずっといい。
 眠るように穏やかに眼を閉じた。そのまま永遠に開くことが出来なくても、それでもいいかと思った。
 だって、こんなにも穏やかなんだから。
 眠りに落ちるのがわかった。ゆっくりと意識が沈んでいく。海の中をたゆたっているような浮遊感。海が懐かしいのは、母親の胎内に似ているからだっけ? そんなことを考えた。
 将真の声が聞こえた。誰かの名を呼んでいる。よかった、ここにいるんだ。彼もここにいる。あの死が満ちた空間に残されてはいない。それだけで、もう本当に眠ってしまっていいと思った。
「……もう、寂しくはないだろう?」
 やさしい声だった。
 眼を閉じているのに、彼の前に小さな少女が立っているのが見えた。まだ十歳ぐらいだろうか。白い服を着て嬉しそうに将真を見上げている。先刻まで着ていた黒い服なんかより、ずっと似合っていた。
 彼をはじめて見た時を思い出す。まだ高校に上がる前だ。幼い妹を気遣う同年代の少年と擦れ違った。髪は茶髪で中学生のくせにピアスを開けていて、不良だと思ったのに、あまりにも優しい顔をしていたから驚いた。手を繋いで、病弱らしい妹を気遣って、けれど気遣いすぎないように気を配って。
 その時のことを覚えていたから、彼に声をかけたのだ。
(お前って、そういうヤツだよなあ……)
 人の心配はしておいて、人に心配はされたくなくて、距離を取りたがって。
 そのくせ、自分を犠牲にしてでも人を助けようとして。
 将真と少女の気配が遠ざかる。どこへ行ったのだろう。どこか、暗くも寒くもないところであることを祈った。
(瑛)
 耳元で声がした。
(起きなさい、瑛)
 懐かしく優しい声だった。何度も名前を呼んでいてくれたのは、この声だとわかる。
 でも、その声に答えるには、眠りがあまりにも心地よすぎた。
(駄目だよ、君は生きなくちゃ……僕らの分も)
 声が遠くなる。
 もう少し聞いていたかったのに。目を開けたら傍にいてくれるだろうか。そう思って必死に瞼を開けようとするがうまくいかない。
 待ってくれ、まだ行かないで。話をさせて。
 だってまだ顔も見ていない。
 瑛を包んでいた暖かな空気が去っていく。胸の痛みはもう感じなかった。
 待ってくれ、何度も繰り返す。

(ありがとう、瑛)

 最後に、そう聞こえた気がした。




 epilogue ---- so, I go.

 夕刻の繁華街、平日ではあるがたくさんの若者が思い思いの方へ歩いていた。近くにいくつか高校がある上、この辺りでは大きな街で交通の便もいいので、制服姿の学生があちこちに見られる。今更それをとがめる大人たちもいなければ、かき入れ時とばかりに店員が声を張り上げて熱心に宣伝している。
 いつもの、ごく当たり前の光景だった。
 その中を三人の女子高生が歩いていた。紺色のブレザーに、チェック柄のスカート、足元は白だったり黒だったりのハイソックス。一人かはマフラーを捲いて、もう一人がコートを着ていた。彼女はそのどちらでもなくブレザーだけだが、特別寒がっているようには見えなかった。
「あ、七瀬」
 とマフラーを巻いた一人が、彼女に声をかける。
「今度の土曜遊ばない? あたし、暇でさー」
 あと二人で遊んでないの、七瀬だけだし、と笑う。
 どうやら二人で遊ぶと言うことを重視しているらしい。彼女は苦笑した。
「ばっか、その日は七瀬の誕生日だよ。予定あるって言ってたし」
 横から肩をすくめて馬鹿にしたような声がかかる。私が誘わないわけないでしょ、となぜか胸を張ると、言われた方はつまんないと拗ねた。
 一方彼女は、ぽかんとした顔で二人を見つめている。何度か空を仰いで確かめたあと、遠慮がちに口を開く。
「――予定、なかったと思うけど……」
「えっ?」
 驚いた高い声が響いた。隣を歩いていた私服の青年がすれ違いざまに横目で見て、無関心そうに歩いていった。
「勘違いしてるのー、だっさー」
「う、うるさいなあっ。あっれーおかしいなあ……なんでそう思ったんだろ」
「まあ、いいじゃん。七瀬の誕生日ならみんなでお祝いしよ」
 まだぶつぶつ言ってる友人を無視して、彼女の肩に手を置いて楽しそうにそう言う。
「うん、楽しみ」
 彼女は少し照れたようにはにかんだ。

   *

 薄暗い横道。
 賑やかな繁華街から伸びるその暗い道に踏み込もうという者はいない。無意識のうちに視線を向けることさえ避けている。まだ完全に日が落ちているわけでもないのに、その道の奥は暗く沈んでいた。そこだけ、影が濃くなったように。
「……行こう」
 道の奥から小さな呟きが聞こえる。かろうじて繁華街の様子をのぞける、ぎりぎりの位置に彼は立っていた。厚手のダウンジャケットのポケットに手を入れ、薄汚れたビルに寄りかかっている。
 眩しい物を見たように、彼の視線が繁華街の人並みからそらされる。
 ちょうど制服を着た女子高生が三人、楽しそうに笑いながら通り過ぎていったところだった。
「もういいのか?」
 彼のさらに奥、影の中から声がかかる。気遣うような声だった。
「……ああ」
 彼はそう呟いて、ビルから背を離す。先が見えないほど暗い道の奥に身体を向けて、足を止める。
「瑛」
 闇の中からまた声がした。彼の表情が険しくなる。
「わかってる」
 ため息とともにそう吐き出した。ポケットに入れたままだった手を出し、呼吸を整える。
 ゆらり、と道の奥で影が揺れた。
「死の野郎も諦めが悪いな。早く済ませねえと、面倒なことになるぜ」
「わかってる」
 短くそう言って、彼は暗い闇の中へ飛び込んだ。
 それが、彼のはじまり。


  決めたんだ
  君を、守るよ



the end of Alpha and Omega.

戻る
2006.12.11. 原稿用紙159枚