V 落下 ---- Hands that strangles him.
カサリ、と手の中で小さな紙が音を立てる。
そこには簡単な地図と、友人の字で「今夜零時に、屋上」とだけ無愛想に書かれていた。
メモが机の中に入っていたことに気がついたのは放課後。委員会が珍しく長く伸びて、誰もいない教室に戻ってきたときだった。
右上がりの癖字。将真の字だ、と見てすぐに気がついた。何のことかと電話しても繋がらず、メールにも返信はない。
それで仕方なく、母親の目を盗んで地図に書かれた場所まで足を運んだ。
「……ここでいいんだよな」
目の前のビルを見上げて瑛は呟く。自分でも情けない声だと思った。
廃ビルという言葉がよく似合う。もう何年も放っておかれたビルのようだった。降りているはずのシャッターは半分ほどあげられ、無理矢理ガラスを割って侵入した痕跡が残っていた。
(こういうとこに入りたがる連中って、何考えてんだろ)
ガラスの向こうに酒の空き缶や瓶がいくつも転がっているのを見て、さらに呆れる。よく見ると花火の残骸まであった。
中の様子をうかがうのをやめて、瑛はシャッターの脇に目をやる。そこには人一人通るのが精一杯の小さな入り口があった。覗き込むと階段がある。
人の出入りを拒絶する廃ビルに電気など灯るはずもなく、暗闇の中にそびえる階段は恐怖以外の何ものでもない。
(冗談じゃない)
帰ってやろうかと思う。それで明日、学校で問いつめればいい。
一人で頷いて、瑛は踵を返す。一歩足を動かしたところで止まった。
手の中で将真の書いた地図が音を立てる。
「くそっ……」
実は人がいい将真がこんな風に呼び出すなんてことは普段なら考えられず、そして彼は人の心をなじるような冗談が嫌いで、なにより不良だろうが口が悪かろうが彼は大事な友人で。
再び廃ビルに向き直った瑛は、勢いをつけてその漆黒の闇へ飛び込んでいった。
*
真っ暗な闇だった。
所々にヒビが入った廃屋の屋上、その鉄柵の手前に彼は立っていた。ダウンジャケットを羽織り、気怠げに両手をそのポケットに入れて空を見上げている。
彼の他に人の姿は見られない。星すらも呑み込んだ重い暗雲が頭上を覆い、はるか高みにうっすらと月の輪郭が見え隠れする。
まるで、世界が滅んでしまったかのような闇。
「……将真?」
錆びた扉が大きな軋みをあげて開いても、彼は振り返る素振りを見せなかった。自分を呼んだはずの背中に、なぜだか拒絶されているように見える。
たとえばこれがどこかの街中であったら、すぐに駆け寄って肩を叩いただろう。
だが足はなかなか動かなかった。頭上に広がる闇の重さに押さえつけられているかのように身体が重い。
じゃり、と靴がコンクリートの上の砂を踏みしめる。
生温い風が、二人の間をすり抜けていった。冬の深夜だとは思えない、湿気を纏った緩い風。そういえば家を出たときの身を切るような寒さが、いつの間にか消えている。
「――死は涼しい夜」
唐突に将真の声が響いた。
良く通る、落ち着いた低い声。
「え?」
将真には似合わない言葉に、瑛は眉をひそめる。
「生は蒸し暑い昼間、はや黄昏そめて……私は眠い」
瑛の声を無視して将真が続ける。
何かの詩だろうか。文学に疎い瑛には聞き覚えもない。それは将真も同じだったはずなのに。
「昼間の疲れは私に重い」
まるで舞台の上の役者のように、ゆっくりと将真は振り返った。その目は瑛をまっすぐに見据えている。
目の前にいるのは本当に将真だろうか、と一瞬考える。
瑛の知っている彼は、こんな風に微笑まない。ナイフを背中に隠しながら、凶器を持っていることを隠そうともしない、そういう笑みだった。
「――ようこそ、親友。夜の世界へ」
放たれた言葉に瑛は目を見開く。
親友、と彼が言葉にして言うのはこれが初めてだった。
言いようのない寒気が瑛の背中を這う。反射的に握りしめた手の中で、将真の書いた地図が音を立てて潰れた。
「なんだよ、それ。何かの詩か?」
将真は答えない。薄く笑った彼が口にしたのは別のことだった。
「お前は考えたことがあるか? 今いる世界がすべてではなく、知っている現実がすべてではなく、たとえばそう、儚い蝶の夢のようなものかもしれないと」
冷たい声だ。
瑛の表情に焦りと言い知れぬ恐怖が浮かぶ。
「蝶の……胡蝶の、夢……?」
口にした瞬間にはっとする。血が下がる音が聞こえた気がした。
握りしめた手に力が入る。そこにある地図に書かれた文字と同じものを最近見なかったか。少し右上がりの、癖のある字。それは。
「あの字、あのノートの切れ端に書かれていた……あれは」
掠れた声が瑛の喉から漏れる。
握りしめた手が冷たい。心臓が激しく音を立てて血を全身にめぐらせているというのに、どうしてこんなにも冷たいんだろう。
「あれを書いたのはお前か」
思っていたより冷たく感じるほどあっさりと、その言葉は出てきた。
無意識に歯を噛み締めた。体中が震えている。
これは誰だ?
瑛を見つめる男の存在を、彼は理解できない。
胡蝶の夢が書かれた紙を回したのは将真だ。でもなぜ。なんのために。彼は瑛と同じように混乱し不審がっていたではないか。そして気にするなと笑ってくれた。
ふっ、と笑う息づかいが聞こえた。
次の瞬間。
「瑛」
すぐ目の前から名前を呼ばれた。先刻まで鉄柵の手前に立っていたはずの身体が、手を伸ばせば届く位置にある。唐突な移動に、瑛は思わずのけぞって一歩下がる。
「来いよ」
「……どこに」
あっという間に腕を取られて、引きずられる。
これは夢なのかもしれないと思う。引っ張られた腕は痛いが、まばたきをする間に鉄柵の前に彼らは立っていたから。
「相変わらず手が冷たいな、お前」
背中を鉄柵に押付けられる。かしゃんという軽い音が滑稽に響いた。
手首を掴んでいた男の――将真の手は暖かい。ずっと羨ましかった。夏でも冷たい自分の手がいやで仕方がなかった。
(ああ……違う)
きつく睨みつける将真の眼を見つめながら、瑛は足元から現実が失われいくのを感じた。踏みしめていた地面の感覚が遠のく。
熱い手に強く肩を押される。背中に当たる鉄柵が軋んで悲鳴を上げる。
(どうして、忘れてたんだろう)
ゆっくりと将真の手が首に掛かり、力がこもる。
「しょう、ま」
暖かい手が首を包んで苦しみを与えていることを、瑛は理解できなかった。
理解、したくもなかった。
「歓迎するぜ、瑛」
鋭利な声。
言葉とは裏腹の、冷たさを含んだ響き。
「――――だから、落ちな」
喉から手が離れ、苦しみとぬくもりが同時に去っていく。
耳元で風を切る音がした。将真の姿が遠くなる。
不思議と声は出なかった。
ただ、闇の中に浮かぶ冷たい色の月を見つめていた。
(離婚したんじゃない……父さんは――――消えたんだ)
父さんの手は冷たくて、
なぜかそのまま消えてしまうのではないかと
繋がれた手を強く握ってすがりついたことを
どうして今まで忘れていたんだろう
*
ガタン、という音で飛び起きた。
遠くから簡素な目覚まし時計の音が響いている。午前六時半。いつもの起床時間だ。
「――……夢?」
頭がくらくらする。
先刻までの情景が脳裏をよぎり、自然と喉に触れる。手は震えていた。
夢、に決まっている。瑛は頭を振る。将真が瑛の首を絞めるなんて、何が起きてもありえないことだ。
手に握りしめていたはずの地図はどこにもない。瑛は寝間着代わりのTシャツとハーフパンツを身につけたままだ。ほっとして、大きく息を吐く。
俯くと視線の先に分厚い本があった。目を覚ましたときの音はこれか。少し前に図書室で借りて少しずつ読んでいる、最近映画になったことで有名になった小説。
「将真に話したらなんて言われるかな……」
重い本を拾いながら思ったままに呟いて、はっとする。
廃ビルの屋上で、瑛が将真の元へやってくる。将真は何事かを告げて、瑛はそれに驚く。
「……偶然、だよな」
将真の夢を聞いたから、それとよく似た夢を見てしまったのだ。そう自分に言い聞かせて瑛は立ち上がる。
手の震えはおさまっていたが、奇妙な胸騒ぎがした。
(なんか……変な感じがする)
首をひねりながら自室を出てリビングへ続くドアの前に立つと、その違和感の正体はすぐにわかった。いつもなら母親が朝食の準備をしているはずのそこに、明かりが灯っていない。
「母さん?」
ドアを開けて覗き込んでも、やはり誰もいない。薄暗い流しに、コンビニの弁当のゴミが残っていた。
「……珍しい、寝坊したのかな」
呟いてから瑛は今来た廊下へ戻る。母親の寝室兼書斎は、瑛の自室の隣にある。
きし、と床が小さな軋みをあげた。
今日はずいぶん静かだ。いつもは朝食を準備する音や、母親がつけっぱなしにするテレビの音が響いていて、こんな風に足元の小さな軋みなんてかき消されている。
母親の部屋の前に立っても、何の物音も聞こえない。
「母さん?」
何度か呼びかけながらノックをしても、反応はなかった。よほど熟睡しているのだろうか。
このまま寝かせておいてあげた方がいいかもしれないと、瑛は少しの間逡巡する。朝食はどこかコンビニで買って食べればいい。いつも忙しい母親だ。たまにはこういう休みも良いんじゃないだろうか。
「……その方が、いいんだろうなあ」
ぽつりと呟いても瑛はドアの前から動けなかった。
目が覚めたときから胸を騒がせている奇妙な違和感が、このまま離れることを拒絶している。
「母さん……入るよ?」
そっと音を立てないようにドアを開ける。
ふわり、と濁った空気が中から流れてくる。長い間人の出入りがなかった部屋のような古い空気。
「――――母さん……?」
部屋は、無人だった。
自分の目に映るものが信じられなくて、瑛はまばたきを繰り返す。
部屋の隅に置かれたベッドには布団がたたまれて置かれている。天井まで届く本棚にぎっしり詰まっていた本は数冊しか残っていない。足を踏み入れれば、床に積もった埃が舞い上がる。
「な、んで……」
うまく声が出せない。
幾度も見回しながら、部屋の奥へと進む。どこを見ても、昨日まで母親がいた気配は残っていなかった。それどころか圧倒的な不在が、瑛に襲いかかる。
足から力が抜けて、クローゼットにぶつかった。
ためらわずそれを開けると、巻き起こった風のせいで大量の埃を吸い込んで咳き込む。服は残されていなかった。
「うそ、だ」
喋るたびに、埃が喉につかえてむせる。
震える足を動かして逃げるように部屋を出た。頭が真っ白になり、何も考えられない。踏みしめている足元の感覚もなくなり、自分がちゃんと立って歩けているのかもわからなくなる。
気がつけば自分の部屋で携帯を握りしめていた。
母親の番号にかける。無情なアナウンスが、その電話番号は使われていないことを告げる。何度も繰り返して、何度も息が止まりそうになる。
母親がいない。それだけは確かなのに、何一つ状況が理解できない。
「くそっ……!」
携帯を持った手を振り上げたとき、不意に友人の顔が頭をよぎった。夢の中の彼の表情が現実に起こったことのようにはっきりと頭に浮かぶ。冷たい眼で瑛を見つめるあの顔。心臓が鋭く痛んで、はっと我に返る。あれは夢だ。現実ではない。
縋るように彼に電話をかける。将真ならば、きっと力になってくれるはずだ。そう思っても、不安で心臓が早鐘を打つ。たった数回のコール音が何十分にも感じられた。
『瑛? どうした?』
携帯から聞こえる声が懐かしくて泣きたくなる。変わっていない、瑛の知っている将真の声だった。
「しょう、ま……」
安堵と今までの緊張で咄嗟に声が出てこない。
『何かあったのか? 酷い声だぞ』
「母さんが、……母さんが、いないんだ。服も本も何も残ってなくて……」
はあ? と驚いた声が聞こえる。
「だから、いないんだよ……! 起きたら、姿が見えなくて、荷物も!」
『お、おい……ちょっと落ち着けよ、瑛』
「落ち着いてなんて」
それでも将真の声に少しずつ落ち着きを取り戻す。とにかく、いないことをわかってもらって、それから、と瑛が考えていると、訝しむ将真の声が聞こえた。
『お前のお袋さん、もう何年も前に亡くなってるんだろ? 夢でも見たのか?』
「え――――――?」
目の前が、真っ暗になった気がした。
いや、実際になったのかもしれない。呼吸も心臓の鼓動も、何もかもが一瞬で停止してしまったみたいだ。
瑛の名を呼ぶ将真の声が遠い。
(……亡くなった? ――――死んだ?)
なら。
死んだというなら、夕べ遅くに疲れたと言いながら帰ってきたのは誰だ。瑛がコンビニの弁当で夕食を済ませたのを見て、溜息をついていたのは誰だ。この前の日曜に、書類を届けるよう電話してきたのは。寂しくない? と痛みを堪えるような顔で問いかけてきたのは。
(母さん……だったのか?)
さっき見た台所。コンビニの弁当の残骸がいくつも重ねられて置いたままになってはいなかったか。まるで、片付ける人間がいないというように。
「……どうなってんだよ」
気がつくと電話は切れていた。無機質な音を響かせる携帯を両手で握りしめて、力なく床に座り込む。
身体が石のように重い。
どうしたらいい。
(でも、母さんが死んだなんて……)
違う。死んでいた、だ。
「誰か……母さん、……父さん――――父さん?」
はっと顔を上げる。
(もしも、もしも、本当に母さんが死んでいたというなら、父さんは?)
月に一度は会うと離婚するときに決めた。お互いに都合がつかないときもあったが、先月の終わりに父親と一緒に食事をした。線の細い、瑛とよく似た面差しと向き合って、学校のこと仕事のこと、とりとめもない話をした。
した、はずだった。
何度思い出そうとしても、記憶には霞がかかったようで、まるで夢の中の出来事だったような気さえしてくる。
それになにより。
(父さんは……いなくなったはずだ)
繋がれていた冷たい手が不意に離れていって、そのまま行ってしまった。だから瑛は、冷たい手が怖いのだ。いなくなってしまう気がして。
「え、ちょっと待てよ、どういうことだ……?」
両親は離婚して、自分は母親に引き取られて過ごしていたはず。
父親は幼いころにいなくなっていた。
母親はとうに死んだという。
「わけがわかんないって……」
瑛は力なく頭を振る。
こんなことがあるのだろうか。自分の記憶と目の前の事実がこんなにも食い違うことが。今まで現実だと思っていたことが、夢だったように朧気になっていく。
それとも、長い長い夢を見ていたのだろうか。母親と父親がいる長い夢を。
はっと顔を上げる。その顔からは血の気が完全に失せていた。
「……胡蝶の、夢――?」
蝶が自分の夢を見ていたのか、自分が蝶の夢を見ていたのか。あまりの夢の心地よさに現実を見失う、それが瑛の置かれた現実なのだろうか。
(なら……将真の夢が現実?)
夢の中で地図を握っていた右手を見つめる。
「違う。将真があんな風に笑うわけがないし、首を絞めるなんて……」
一人呟いていると、喉に痛みを感じた。
埃を吸い込んで何度も咳き込んだ喉。夢の中で締め付けられた喉。
「……っ!」
夢の光景を振りほどくように勢いよく立ち上がる。
時計を見ると、もう家を出る時刻になっていた。今から行けば、始業に間に合うだろう。将真が遅刻していなければ、話す時間もあるはずだ。
瑛は何も考えないように手早く制服に着替え、沈黙し続ける携帯をポケットにねじ込んだ。
混乱しているのか無意識に見なかったことにしたのか、彼はそのことを不審に思わなかった。不良ぶりながらも友人思いの親友が、電話をかけ直してくることもメールを送ってくることもしなかったことを。